当院の創建は寛永十三年(1636)、三代将軍徳川家光公が、その乳母・春日局の発願により、 大和国小池坊(長谷寺)より栄誉を招いて開山とし、神田白壁町に堂宇を建立、 薬師瑠璃光如来像を本尊として「金剛寶山延壽寺根生院」と称したのが、その歴史の始まりです。
寺の名は、家光公自らが定めたと伝えられています。徳川家にゆかりの深い寺院として 朱塗りの門(赤門)を許された数少ない寺の一つでもあります。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 寛永十三年 (1636) | 三代将軍徳川家光公が乳母・春日局の発願により、大和国小池坊(長谷寺)より栄誉を招いて開山とし、神田白壁町に堂宇を建立。薬師瑠璃光如来を本尊とし「金剛寶山延壽寺根生院」と称す |
| 正保二年 (1645) | 第二世栄専の時、下谷二長町に移り、江戸城西の丸祈願所として寺領二百五十石を賜る |
| 貞享四年 (1687) | 七月、新義真言宗 江戸四ヶ寺の一に列す。八月、仁和寺御堂光明院の院室を兼務して院家となり、歴代の住職は幕府の命によって選ばれる寺となる |
| 元禄元年 (1688) | 本郷湯島切通し(現・文京区)の知足院跡へ移転 |
| 元禄三年 (1690) | 八月、幕府の命により江戸城にて観音経を講じ、将軍綱吉公より寺領百石を加増される |
| 元禄十六年 (1703) | 十一月、火災により類焼 |
| 享保五年 (1720) | 再建 |
| 明治初年 | 政治機構の一変により廃寺となる |
| 明治二十二年 (1889) | 下谷池之端七軒町にて、第四十四世明盛により再興 |
| 明治三十六年 (1903) | 市区改正の都市計画により、現在地(豊島区高田)へ移転。昭和十年代までは真言宗豊山派の加行道場であった |
| 昭和八年 (1933) | 「ちとせ橋」開削工事の土により、境内の池が埋められる |
| 昭和二十年 (1945) | 付近一帯の戦火の犠牲となり、山門を除いて焼失 |
| 昭和二十八年 (1953) | 境内地の一部に本堂を再建 |
| 平成十四年 (2002) | 現在の堂宇に改築 |
境内に掲げられた「寺號之由来」には、家光公が「根生院」の名を定めた由来が記されています。 「根とは根本なり、生とは生物なり」——樹木の根本のように、あらゆるものを生かし支えるものであれ、という意でしょうか。
現在地は、もと尾張候の下屋敷であったものが田安家に譲り渡され、文政の頃は一つ橋屋敷となったと伝えられています。 下屋敷の跡であり、池あり丘あり樹木あり、また清泉湧き出た幽境の地でした。
その池は昭和八年、「ちとせ橋」開削工事の土によって埋められました。 そして昭和二十年、付近一帯の戦火により、山門を除くすべてを失いました。 戦後は都市化が進み、旧本堂跡は住宅地となっています。
湯島切通しにあった時代の根生院は、『江戸名所図会』に描かれています。 大きな伽藍と参詣の人々の姿を、いまも版本のなかに見ることができます。
同じころの江戸切絵図にも、湯島天神の裏手に当院の寺地が記されています。